Independent curator
ホワイトレインボウ(ロンドン、英国)での榎忠個展に際し発行された同名の冊子に寄稿した文章。*冊子には英語のみ収録
ホワイトレインボウから、日本の戦後美術史において具体美術やモノ派と、村上以降をつなぐ作家を提案してほしいと依頼されたとき、榎忠が心に浮かんだ。日本の戦後というある意味特殊な文脈から生み出された榎の作品群は、後で述べるとおりインスティテューションの外にあったことから無垢であり、人間としての感性がストレートに表現されている。彼の感じ取った力への欲望と恐怖は、立場は違っても、世界中の戦後を経験した人々に共有されているはずだ。そして私にとってロンドンはその欲望と恐怖について世界の中で最も真摯に論議できる土地であり、人々の知性を信頼できる場所であった。そのような私の思いを榎が受け止めてくれたことで、この展覧会が実現した。
榎忠は日本以外ではまだほとんど知られていない。「これまで知られてこなかった」とはどういうことなのだろうか。ロンドンのように美術の中心地の一つであった場所から見ると、広大な世界に存在する無数のアートをすべて知ることは不可能で、各地域から選ばれたごく少数の作家が知られればそれでよいのだとは思う。しかし榎のような重要な作家がその埒外にあると、やはりその認知のシステムについて考えてしまう。通常、作家は美術館やコマーシャルギャラリー、あるいは大学といったインスティテューションに関わることで、生まれついた土地を超えて紹介されていく。しかしながら榎はそのような制度の外側にいた。美術館やギャラリー、大学などの内側に生息することを拒み、自ら働いて得た賃金で制作と発表のほぼすべてを賄ってきた。それは表現に自由を求めた、この作家の芸術家としての信条であった。彼のその生きざまが、紹介の遅れてきた最大の理由になっている。
そしてその一方で、私たちはこの信条から生み出された彼の作品の驚くべき強度にも注目すべきだろう。例えば、海外で知られる日本の作家群として、具体、モノ派と、榎の違いを考えてみる。具体は榎がベースとした兵庫〜大阪を中心とし、榎に10年ほど先駆けて活動した先達であり、またモノ派は榎とほぼ同時代の作家群で、どちらもその実験性、独創性において国際的に高い評価を受けている。具体の指導的立場にいた吉原治良が「人の真似をするな」という言葉で会員を鼓舞したことはよく知られているが、これは言い換えれば具体が他者の存在を必要とし、その否定をもって前進した側面を物語っている。モノ派の、作為を極限まで排し素材に実在の意味を託した表現は、当時の美術の潮流における百花繚乱的な主義の横溢に対する否定的態度でもあった。両者に共通するこの「否定」には、西洋の影が強くつきまとっている。というのは、日本には明治時代に西洋美術を「学ぶべきもの」として輸入したことから始まった精神的な苦難と、第二次世界大戦後に始まったアメリカへの従属関係が通奏低音となって響いている。美術に関わる者は多かれ少なかれ「西洋」を肯定するか否定するかの選択を迫られていた。特にインスティテューションにおいてはその抑圧は強化されることになる。
会社員であった榎はそのスタンスを守り通すことで、インスティテューショナルな関係性から一定の距離を保った。そこから、一人の人間としてものを感じ、考える無垢な芸術家が生まれたのだ。別の言葉で言えば、「面白ければそれでいい」という精神的に自由な態度を貫くことができた。まさにこの点が日本を代表する多くのプロフェッショナルから榎が尊敬を集めてやまない理由でもある。榎の芸術は具体やモノ派のいわばストイックとも言える「否定」の態度と照らし合わせると、むしろポストコロニアルな精神的葛藤とは関係の薄かった、西洋の地における戦後美術のポリティカリティと呼応する面が強いように感じる。
アマチュアだった榎はまず絵画教室で油絵の制作を始め、二科会という公募団体に作品を出品する。次に、公募団体での活動に限界を感じた榎は、仲間達と絵画教室を始め、そこで気のあった仲間達と「Japan Kobe Zero」を結成し、首つりなど様々なハプニングが行われる<The Revolution of the Rainbow> (1971)や、天井に設置された巨大な布が昇降する<The 400m3 Moving Ceiling> (1973)など、コレクティブとしての前衛的な活動を始める。このグループゼロでの活動は50年代の終わりから続いていた「反芸術」のムーブメント、前衛のムーブメントの一つであると言えるだろう。榎はこのコレクティブとしての活動と並行して単独の活動も行っていた。1976年にJapan Kobe Zeroを脱退した後、その単独活動に見られた彼独自の方向性が明確になっていく。
その単独活動の初期における好例は1970年に行われた大阪万博及び銀座歩行者天国における<裸のハプニング> (1970)である。これは大阪万博のマークを体に焼き込み、銀座の歩行者天国および大阪万博会場を裸で歩くというものだった。一見人々を異常な姿で驚かしてみせるという反芸術のパフォーマンスに見えるが、異なる点は、万博マークを日焼けで体に刻印するために榎は4ヶ月を費やしていることである。もし芸術という制度へ対抗する姿勢を見せるためだけであれば、こんなに長い時間は必要がない―—何か簡単なものを体に貼付けて(ペインティングして)通常と違う格好で表を歩けばいいのである。榎にとって体を使うことは、外向けには生々しい生きた体の存在感を見せつけることであったが、内向きには、芸術活動を日常レベルで遂行することであり、身を以て芸術的行いを感じていくことであった。その意図は<ハンガリー国にハンガリ(半刈り)で行く>(1977)において最もよく表れている。このパフォーマンスは右半分の体毛をすべて剃り落して1年生活した後、丸坊主にし、さらに1年半体毛を伸ばし、最後に左半分の体毛を剃り落すというもので、かかった年月は足掛け4年にも及ぶ。その間に友人である京都大学の物理学教授が客員教授として招かれていたハンガリーへ、この風貌をもって旅行をする(ハンガリーと半刈りは日本語でほぼ同じ発音である)。作品の中に流れるこういった時間の長さは、榎の「生活と芸術を分離しない」という考えをよく表しているだろう。前衛の芸術家たちとの差異がここにはっきりと表れている。榎は芸術的身体で日常生活と、普通の人々と接し、ゆっくりと、しかし根底から、私たちの意識の変革を迫ったのである。
そのような日常的に芸術を行い、示すという態度をもって、榎は一連の兵器に関連した作品を作っている。それは戦後の日常を生きる人間としての問題意識が表現されたものだったと言えるだろう。戦後の冷戦構造を土台としたアメリカとの関係の中で、日本は19世紀末から戦争中に行われた侵略など、自らがふるった暴力について表面的に忘却していった。アメリカ占領下で起草された平和憲法の下で日本は戦力を放棄し、戦後の荒廃から高度経済成長を迎える過程において平和を享受していた。しかしもちろん過去とは帳消しになるものではなく、日本の人々は常にどこかでその過去に怯えていたし、警察予備隊から自衛隊へと名前を変えて依然として存在し続ける武力というものの捉えきれなさに漠然とした不安と矛盾の感情を抱えていた。
兵器の形は、理想主義的な平和と、隠蔽された暴力を抱えるシチュエーションで「言ってはいけない」代表的な「言葉」だった。榎は「暴力/戦争を終わらせるために」「より強力になるよう」開発され続けていく「兵器」というものの存在から、人間の尽きることのない「力」への欲望を読み取り、形にしているのだ。
例えば<原子爆弾> (1982/1983)は1945年に日本の広島と長崎に人類史上初めて使用された核兵器をモチーフとしている。榎はこの爆弾の実物を見たことはなく、不明瞭な写真を基にこの巨大な彫刻作品を作っている。つまり精巧な再現ではありえず、むしろその想定される差異の大きさから、おかしみを誘うパロディとしての性格さえ持つ作品であった。その無邪気な模倣(ミミクリー)を、鑑賞者は不安をかき立てられるような気持ちで眺めることになっただろう。それはこの出来事を禁忌として「話すことのできない」鑑賞者自身を映し出していた。
このような欲望と恐怖の二重像は、<薬莢> (1991-1992)、<AK-47/AR-15> (2000-)、そして一連の大砲の作品に継続して表現されている。<薬莢>は使用済みの薬莢を集め、積み上げたインスタレーションなので、彫刻というよりドキュメント的な作品である。その見る者を圧倒する物量は、豊富さのイメージにつながり、それが実際に使われたものであるという事実も相俟って、人間の尽きることのない欲望の在処を浮かび上がらせる。<AK-47/AR-15>は鋳造された400丁のカラシニコフとコルトである。その量からやはり「豊富さ」のイメージが喚起され、形態的にも実物とほぼ同じであることから暴力への欲望を物語る。また同時に使えない(鋳造=鉄の塊)ことからパロディとしての機能も併せ持つ。<大砲>は他の兵器に関連する作品と同様、欲望と恐怖が表現されているが、一方でそのアイコニックな形態からプラモデルを愛好する子どものような無邪気さも喚起するだろう。
2003年のイラク戦争から榎は「現実が作品を超えてしまった」と兵器型の作品制作を止めた。代わって制作された作品に、磨き上げられた金属片を積み上げた<RPM-1200> (2006)がある。その冷たい美しさは、モダニズムのメタファー、一度夢見られた未来をも想起させるだろう。発展への夢、欲望、その裏に織り込まれる不安を俯瞰する視点から、マンダラ、宇宙的なビジョンも示唆されている。
この限られた紙幅で榎が制作したすべての作品を網羅することはできないが、最後に1979年のパフォーマンス<ローズチュウ>にも触れておこう。これは榎自身が女装をし、バーで客に酒を振る舞うものであり、2007年およびその後数度に渡って再演されている。シリコンの乳房を身につけた榎は男性性に固定されない存在のフレキシビリティを見せる。ある種のストイシズムを読み込まれてきた日本現代美術の文脈の中で、「面白いことをする」をその活動の旨としてきた榎の作家としての大きさを伺うことができるだろう。
今回の展示では<AK-47/AR-15>、<Salute H2C2>の二つの兵器をモチーフとした作品を中心にインスタレーションを組み、榎忠の無垢なポリティカリティをその形はもちろん作品の重量、物量、質感からも感じ取れるようにした。日本とは違ってロンドンではその意味をより普遍的なものとして鑑賞できるのではないかと考えている。同時に<ハンガリー国にハンガリ(半刈り)で行く>の写真作品と旅行のドキュメンタリーを展示し、日常の一部として芸術を遂行した、全身芸術家としての榎の存在感を示すよう意図した。この展覧会が遠い土地のことを知らせつつも、多くの人々を現代的で深遠な問題意識によって結びつけるものであることを願って止まない。
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2015年2月10日
金澤韻
2015年2月11日ー3月11日
ⒸWhite Rainbow, London, 2015